Q&Aコーナー

Ⅲ、『救いについて』

Q1.「福音を一度も聞かずに死ぬ人はどうなるのですか?」

A1.福音を聞いた上で、それを拒んだ人には責任があるけれども、一生涯福音を聞く機会のなかった人には、責任がないのではないかと考える人もあるでしょう。しかし、福音を聞いて拒むよりも前に、すべての人が神様を無視して、神様に逆らって生き、様々な罪を犯しているという現実を忘れてはいけません。神様は、大自然や宇宙を通して、ご自分の存在や力を証ししておられ、また、人の良心を通して、何をすべきかを教えておられるのに、人はそれに聞かず、従いもしません(ローマ人への手紙1章18-23節、2章14-15節、3章10-12節)。だから人はみな、神様の前に責任があるのです。神様のさばきを受けて当然なのです。キリストの救いの福音は、そのような世界にもたらされた特別な恵みなのです。

 すると神様は、その恵みの与え方において、不公平ではないかと考える人がいます。ところが、こういう人の要求する公平は、かなり非現実的なもので、誰にも同じチャンスがあり、誰にも同じ理解力が与えられ、同じ社会環境に育ち、同じ程度の美人でないと、完全な公平とは言えなくなってしまうのです。

 しかし、神様の公平は、福音の中の救いを受ける条件が、ただイエス・キリスト様を救い主と信じるだけというところに現わされています。貧富の別、身分の差、知能の程度などで何ら差別されず、誰もがただ信じ頼って救いを受けることができるのです(ローマ人への手紙3章22節、エペソ人への手紙2章8-9節、コリント人への手紙第一1章26-29節)。とは言え、聞いたことのない方を信じることはできませんし、宣べ伝える人がいなくては、聞くこともできません。だから、すでにイエス・キリスト様を信じて救われた人の責任は、とても大きなものになるわけです。

*ローマ人への手紙1章18-23節「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らには弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」

*ローマ人への手紙2章14-15節「律法を持たない異邦人が、生まれつきのま1まで律法の命じる行ないをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかかし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。」

*ローマ人への手紙3章10-12節「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」

*ローマ人への手紙3章22節「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」

*エペソ人への手紙2章8-9節「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。誰も誇ることのないためです。」

*コリント人へに手紙第一1章26-29節「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前では誰をも誇らせないためです。」