聖書のメッセージ

『自分探しの人生』

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、

 また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。」

                        (伝道者の書 12章1節)

 

 冬になると、夏にあれほど生い茂っていた草木も、すっかり枯れ、何となく不活発に見えます。このような冬は、人生の晩年や死にたとえられます。ところで皆さんは今、どの世代に属していますか。もし若年層であれば、これからの人生をどう生きて行こうかと考えておられることでしょう。自分が本当にしたいことは何か、そのための自分探しをしておられるかもしれません。しかしこの自分探しは、若い人たちに限りません。ラジオの人生相談に、こんな相談がありました。72才のある男性は、一人っ子で両親はすでに亡くなり、しかも生涯未婚です。15才から45年間一つの会社で働き、60才で定年になりました。体は健康で、生活にも困っていません。しかし、身内がいないので毎日が寂しく、これまで仕事一筋で来たので定年後はどう生きていいか分からない、と言うのです。これはこの方だけの問題ではありません。平均寿命がますます延びている今の時代です。これからは多くの人が、同じような問題を抱えることになるでしょう。実はこのような問題は、結局のところ、私たち人間は何のために生きているのかと言うことなのです。私たちは、そのことを知った上で、人生の計画を立てておかなければなりません。ある人は、成功、名声、財産すべてを手に入れながら、死を目前にしてこう言いました。「こんなに苦労して成功しても、人生の役には全然立たなかった。」また、あの天下を取った秀吉も辞世の句で人生を振り返り、「夢のまた夢」と詠みました。しかし聖書には、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。」とあります。私たち人間は、創造主なる神様によって造られました。それは、神様と共に、神様のために生きるためです。それゆえに、その創造主なる神様を知ること以外に、人間の存在と生きる意味、目的を知る道はないのです。

                   (教会レター2015年冬号より)

 

『読書の秋』

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」

                      (詩篇 119篇105節)

 

 正に猛暑の今年の夏の暑さもようやく一段落し、やっと秋らしくなって来ました。秋は何をするにも、じっくり取り組むのに良い季節です。ところであなたは、人生について深く考えたことがありますか。これはある新聞の人生相談です。「大学3年生の男子です。そろそろ就活が始まりますが、何のために就職して働いていくのかわかりません。‥‥働く意味、生きていく意味って何ですか。教えてください。」これに対してある評論家がこう答えました。「青春、という言葉があります。大人になるかどうかで悩む時期のことです。こんな悩みが自分の中に生じてこない段階は子どもです。そして、こんな問題でいちいち本気で悩まなくなった状態を大人と言います。‥‥なので、あとは二択しかありません。青春を続けるか、しぶしぶ大人になるか、どっちかです。‥‥子供から青春にシフトしたら、もう戻れないのと同様に、青春から大人にシフトしちゃったら、もう悩めないんですよ。」これは、多くの人が考える常識的な答えです。でも本当にそうでしょうか。人生の意味を知らずに生きるということは、人生そのものを無駄にしてしまうばかりか、取り返しのつかない結果をもたらします。人間はどこから来たのか。なぜ生まれ、何のために生き、なぜ死に、死んだらどうなるのか。それを知ってこそ、今何をすべきか、どう生きるかが決まるのです。でもどうしたらそれを知ることができるのでしょうか。聖書には「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」とあります。聖書は、この世界のすべてのものを造られた創造主なる神様からのメッセージであり、私たちの人生の歩むべき道を教える光です。その聖書に「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」ともあります。私たちは、創造主なる神様を知り、教えられなければ、人生の本当の意味を知ることはできないのです。この秋、じっくりと聖書を読んでみませんか。

                   (教会レター2015年秋号より)

 

『人生の土台』

「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、

 土台を据えました。・・・その土台とはイエス・キリストです。」

              (コリント人への手紙第一 3章10-11節)


 最近は、異常気象の影響で、夏は猛暑で、集中豪雨と言われるような大雨の降ることが多くなりました。それも、「これまで経験したことのないような」という言葉が付いています。そのために、これまでは何の問題もなかった所の地盤がゆるみ、洪水や土砂崩れなどが起き、家が押し流される被害が多発しています。聖書の中にこんな話があります。地面を深く掘って、岩の上に土台を据えてから家を建てた人と、砂の上に土台なしで家を建てた人の話です。そこへ大雨が降り、洪水が押し寄せて来ました。砂の上に土台なしで建てられた家は、ひとたまりもなく倒れてしまいました。しかし、岩の上に土台を据えて建てられた家は、びくともしませんでした。これは、私たちの人生にたとえられています。あなたは何を土台として人生を歩んでいるでしょうか。時代と共に移り変わる、いつかすたれてしまうこの世の常識や人間の思想、哲学でしょうか。それとも、決して変わることのない創造主なる神様のことば、聖書でしょうか。人間は本来、創造主なる神様によって、神様と共に生きるために造られました。それゆえに、人生の土台は神様のことばでした。ところが人間は、神様に背き、罪を犯し、神様から離れてしまった結果、この土台を失ってしまいました。その行き着く所は、永遠の死であり、滅びです。しかし神様は、そのような人間を罪から救うために、救い主としてこの世に人として来られました。そのイエス・キリスト様は、人間の罪を負い、身代わりの刑罰を十字架の上で受け死なれ、三日目によみがえられました。私たちは、罪を悔い改め、そのイエス様を救い主と信じ受け入れるならば、罪が赦され、神様と共に永遠に生きる者とされます。それは決してすたれない、確固とした永遠の神様のことばを土台として生きる者とされることなのです。

                   (教会レター2015年夏号より)


『春の装い』

「人はうわべを見るが、主は心を見る。」

              (サムエル記第一 16章7節)

 

 春から初夏にかけて、寒い冬に着ていた厚いコートから薄いジャケットやシャツに、さらには長袖から半袖へと、一気に装いが変わり、気持ちも何となく軽やかになる気がします。ところで、私たちの心の中はどうでしょうか。いろいろな悩み事や、犯してしまった罪、失敗によって重くなった心が、季節の移り変わりとともに、一気に解決し、軽くなるとは思われません。人間はなぜこうも色々な事で悩み苦しむのでしょうか。それは、人間が本来の生き方、創造主なる神様と共に生きることを捨てて、神様から離れ、自分中心に、自分勝手に生きるようになったからです。それが聖書で言う、人間がみな生まれながらに持つ「罪」です。その結果、人間は様々な事で悩み苦しむのです。たとえどんなに善い行いを積み重ねても、心の中にあるその罪を取り除き、消し去ることはできません。結局、そのような善い行ないは、うわべだけのものです。心を見られる神様の目から見れば、人間の心はみな、醜く、汚れているのです。聖書には「義人はいない。ひとりもいない。‥‥善を行なう人はいない。ひとりもいない。」また「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」とあります。もしそのままであれば、人間はみな、その罪の当然の刑罰を受けなければなりません。

 しかし神様は、ご自身の一方的な愛と恵みによって、人間の罪を赦し、その罪の心をきよめようとされました。そのために、神様ご自身が人となられ、罪人の人間の罪をその身に負い、身代わりの刑罰を十字架の上で受け死なれ、三日目によみがえられました。そして、罪を悔い改め、その神様であるイエス・キリスト様を救い主と信じ受け入れる者の罪を赦し、きよめて下さり、神様と共に生きる者として下さるのです。

                   (教会レター2015年春号より)


『新しい人生の始まり』

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。

 古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

                   (コリント人への手紙第二5章17節)


 過ぎた一年を振り返り、新しい年に期待する今日この頃です。心に残る過去の出来事は、良い事よりも悪い事のほうが多いように思います。新しい年を迎えたからと言って、すべてが新しくなるわけではありません。忘れようとしても忘れられない、過去の失敗や犯してしまった罪で苦しむことがあります。ある婦人は、遠い昔の高校生の頃の出来事が心の傷として残り、苦しんでいました。親友とささいなことで大げんかになり、「もう、あんたの顔なんか二度と見たくない」と言って、けんか別れしたのです。気が落ち着き、「悪かった。明日仲直りしよう」と思い、翌日、学校へ行くと、その友人は登校して来ませんでした。昨夜、事故で亡くなったとのことでした。その事故は決してその方のせいではありませんでしたが、けんか別れした罪悪感が、いつまでも心に残りました。私たちは、過去に犯してしまった罪をどう処理すればいいのでしょうか。

 聖書によると、私たち人間はみな、生まれながらの罪人です。それは、創造主なる神様に対して犯した罪、すなわち、神様に背き、離れ、自分勝手に生きることです。その結果、様々な罪を犯してしまうのです。しかし神様は、「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」と言われました。神様は、私たち罪人の罪を赦し、罪から救うために、御子イエス・キリスト様をこの世に人として遣わされました。そしてイエス様は、私たちの罪を負い、身代わりの罪の刑罰を十字架の上で受け、死なれ、三日目によみがえられました。罪を悔い改め、そのイエス様を救い主と信じ受け入れる者の罪は赦され、罪から救われるのです。そして新しいいのちを受け、過去の罪に縛られない、新しい人生が始まるのです。あなたも、イエス様によって与えられる新しい人生を歩み始めませんか。

                   (教会レター2014年冬号より)


『食欲の秋』

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る

 一つ一つのことばによる。」

                   (マタイの福音書4章4節)

 

 秋は、夏の暑さで落ちていた食欲が回復し、食べ物がおいしくなる季節です。最近は、テレビやインターネットで、おいしい食べ物やレストランなどの情報がすぐに手に入ります。その反面、栄養の取りすぎや偏食によって、病気になる心配が増えています。

 ところで皆さんは、何のために生きておられますか。ある人は「なぜ勉強するの」「なぜ働くの」という問いに、「生きるため、食べて行くため、必死になって働くものです」と答えました。でもこの答えの中には、「何のために生きているのか」の答えがありません。それがなければ、「なぜ勉強するのか」「なぜ働くのか」の答えも出て来ません。

 聖書には、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」とあります。この世では、肉体を持つ者として生きている私たち人間は、食物を必要としています。でなければ肉体は死んでしまいます。しかし人間は、単に肉体だけの存在ではありません。霊的なたましいを持つ存在でもあります。それは、創造主なる神様と共に、神様のために生きる者として造られたからです。その霊的なたましいにもいのちがあります。そのいのちを維持し、養うために必要なのが神様のことば、聖書なのです。もし私たちが、神様から離れてしまうならば、肉体は生きていても、霊的なたましいは死んでしまいます。私たち人間はみな、そのような生まれながらの罪人です。もしそのまま肉体が死んでしまうなら、神様の永遠のさばきを受けることになります。けれども、そのような罪人を救うために、神様である方が人となられ、そのイエス・キリスト様は、罪人の身代わりの刑罰を十字架の上で受け死なれ、三日目によみがえられました。それは「生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」これこそが、私たち人間にとって、何のために生きるべきかの答えなのです。

                   (教会レター2014年秋号より)

 

『心をよくするもの』

「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、

 悪い倉から悪い物を出します。」

                   (ルカの福音書6章45節)

 

 夏は蒸し暑く、食べ物が腐りやすい季節ですね。物を腐らせるのは、細菌の中の悪玉菌のしわざです。それは、体に害を与え、食中毒などの病気を引き起こします。しかし、同じ細菌でも、物を発酵させ、体の健康維持に役立つ善玉菌もあります。

 ところで、私たちは、心の良い状態、心の健康を保つにはどうしたらよいのでしょうか。聖書には、「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します」とあります。けれども、「善を行う人はいない、ひとりもいない」ともあります。それは、すべての人が罪人であり、良い心を持つ良い人などひとりもいないということです。人間は本来、創造主なる神様に、良いものとして造られましたが、その神様に背き、自分勝手に生きるようになってしまったからです。それで聖書には、「人から出るもの、これが人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出てくるものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」とあるのです。

 ではどうしたら、私たちは心の状態を良くすることができるのでしょうか。それは、私たちを造られた神様に造り変えて頂くしかありません。そのために神様は、イエス・キリスト様をこの世に送られました。イエス様は、罪人の罪を負われ、身代わりの刑罰を十字架の上で受け死なれ、三日目によみがえられました。私たちは、罪を悔い改め、イエス様を救い主と信じ受け入れるならば、罪が赦され、罪に死に、新しいいのちを受け、新しく生まれ変わるのです。そして日々成長し、良い心の状態へと変えられて行くのです。

                   (教会レター2014年夏号より)

 

『善悪の免疫力』

「わたしたちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な

 道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に

 負わせた。」

                       (イザヤ書53章6節)

 

 春から初夏の季節、草木の芽が萌え、花が咲き誇り、いのちにあふれています。ところが最近は、花粉症などのアレルギーで苦しむ人が増え、あまりいい季節とは言えなくなって来ました。私たちの体には免疫力があります。体の中に入った異物を攻撃して排除しようとする仕組みです。しかし、本来害にならない物や、栄養物として必要な良い物さえも、異物として過剰に反応して排除してしまうのがアレルギーです。そのような免疫力は、人によってみな違います。ところでこれは、私たち人間の善悪に対する反応に似ています。人間はみな、自分自身の中に自分なりの善悪の基準を持っています。しかしそれは、絶対的なものではなく、自分中心で自分勝手なものです。それで、本当は悪であることを受け入れ、善であることを排除してしまうことが起きます。それは、間違った判断や行動を引き起こし、争いの元ともなります。聖書では、それが人間の持つ生まれながらの罪だと教えています。それは、絶対的な善悪の基準を持つ創造主なる神様に背き、離れてしまった結果なのです。その罪には当然の報いとしての刑罰があります。人間はみな、罪から救われ、神様に立ち返り、絶対的な善悪の基準で生きる必要があります。しかし、人間の力、努力ではどうすることもできません。それゆえに、神様であるイエス・キリスト様が、人としてこの世に来られ、人間の罪をその身に負われ、身代わりの刑罰を十字架の上で受け死なれ、三日目によみがえられました。私たちは、罪を悔い改めて、そのイエス様を救い主と信じ受け入れる以外に、罪が赦され、神様に立ち返ることはできないのです。

                  (教会レター2014年春号より)