聖書のメッセージ

『生きている人生』

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、

 死んでも生きるのです。」

                    (ヨハネの福音書11章25節)

 猛暑と残暑が続き、最近は、秋らしい秋がなくなりましたね。冬になると、夏に生い茂った草木も、すっかり枯れて死んだように見えます。ところで皆さんは今、生きておられますか。もちろん息をして、これを読んでいるから生きている。でも本当に、生きた人生を送っていますか。ある人が、ボールを投げては犬に取って来させて遊んでいる時、ふと、これと同じ自分の人生に何の意味があるのだろうと考えました。また、ある人は老年になり、死を目前にして、自分の人生にどんな意味があるのかと嘆きました。今まで見たいものを見て、したいことは全てして来たのに、たどりついた今は何の楽しみもなく、ただ苦しみだけが残されているのです。このような人生は死んでいるのです。聖書には「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」とあります。私たち人間は、創造主なる神様と共に生きるものとして造られ、神様のことばによって養われていなければ、霊的に死んでしまうのです。神様から離れ、自分勝手に生きることが人間の罪であり、そこには本当のいのちはありません。しかし、そのような人間に本当のいのちを与えるために、救い主イエス・キリスト様は来られました。イエス様は、罪人の人間の罪を赦し、永遠のいのちを与えるために、十字架につけられ死なれ、三日目によみがえられました。このイエス様を救い主と信じて生きる以外に、本当のいのちに生きる人生はありません。

                  (教会レター2013年冬号より)

 

『罪人を救う神の愛』

「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」

                    (マタイの福音書24章12節)

 猛暑が続いた今年の夏、正に異常気象です。異常なのは気象だけではありません。世界の国々の内外で、混乱や紛争が起きています。日本も近隣諸国との関係が冷えています。また、人間関係のトラブルによる殺人事件や犯罪も増えるばかりです。聖書に「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」とある通りです。なぜこのようなことが起こるのでしょうか。聖書には「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」とあります。これは、特定の人たちのことではありません。私たちはみな、大なり小なり人との争いをしているのです。それは生まれながらに持つ罪、創造主なる神様から離れ、自分中心に、自分の好きなように生きようとする罪から来るのです。私たちは、まず自分自身の罪を解決しなければ、何も始まりません。神様はそのような人間を罪から救うために、御子イエス・キリスト様をこの世に遣わされました。イエス様は、私たちの罪を負い、身代わりの刑罰を十字架の上で受け死なれ、三日目によみがえられました。私たちは、罪を悔い改め、イエス様を救い主と信じ受け入れるならば、罪から救われます。それが神様の愛であり、私たちが必要としている愛なのです。

                  (教会レター2013年秋号より)

 

『人生の長さ』

「そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも

 悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

                       (ルカの福音書13章5節)

 皆さんは今、人生のどのあたりにおられるますか。若年、壮年、それとも老年ですか。いずれにしても、できるだけ長く生きたいと思うことでしょう。平均寿命は、年々少しずつ長くなっています。でも、だからと言って、それだけ長く生きられる保証はありません。明日何が起こるかも分からないからです。最近、頻繁に起こる地震などの自然災害、思わぬ事故、テロや通り魔殺人事件など。私たちは、いつ、どのようにして死を迎えるか分かりません。問題は、いつ、どのように死ぬかではなく、どのように生きているかです。聖書の中でイエス・キリスト様は、当時起きた二つの出来事(残忍な殺人事件と不慮の事故)を取り上げて、被害に遭った人たちが、他のどの人よりも罪深かったからだと思うのですかと問われてから「そうではない。わたちはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」と言われました。人間はみな、生まれながらに創造主なる神様に背き、離れて生きる罪人であり、刑罰にしか価しない者です。私たちはみな、罪からの救いを必要としています。イエス・キリスト様は、そのような罪人を救うために来られ、身代わりの刑罰を十字架の上で受け死なれ、三日目に復活されました。私たちが、罪を悔い改め、イエス様を救い主と信じ受け入れるならば、罪が赦され、永遠のいのちを受け、罪から救われるのです。それ以外に罪から救われる方法はありません。

                  (教会レター2013年夏号より)

 

『真の助けと力』

「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、

 そこにある助け。」   (詩篇46篇1節)

 春から初夏にかけて、新しい生命が芽吹く時です。冬の間死に絶えてしまったような草木に、新しい生命が吹き込まれて行くようです。自然の営みほど、神秘的で不思議なものはありません。そこにはいのちの力を感じます。そのような力は一体どこから来るのでしょうか。私たちはよく、「自分の力を信じて頑張る」と言う言葉を聞きます。でも私たち人間の力には限界があります。人生の旅路において、いかに人間の無力さに気が付かされることでしょうか。

 こんな話があります。事業が思わしくなく、悩んでいた人が、橋の上を歩いていました。歩き疲れた彼は、橋の欄干に寄りかかりながら川の面を見ていると、船頭が一心に漕いでいる小さな船が、橋の下を通りました。しばらくすると、もう一隻の船が通りました。その船は、帆を上げると風を受けてぐんぐんと進み始め、前の船をあっと言う間に追い越してしまいました。これを見た彼はこう考えました。「人生は自分の力だけではいけない。もっと大きな力を受けて、生活しなければならないのだ。自分は今まで、自分がただ努力すればよいと考えていたが、もっと大きな力を心に受けて生活することが大切なのだ」と。ではその力はどこから来るのでしょうか。聖書には、「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け」と言われています。私たちを造られた創造主なる神様こそ、私たちの人生の旅路の助けと力となる方なのです。

                  (教会レター2013年春号より)

 

『本当の友だち』

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも

 大きな愛はだれも持っていません。」

                (ヨハネの福音書15章13節)

 あっと言う間に一年が過ぎ、新しい年を迎える時季ですね。世の中はあい変わらず殺伐としています。私たちの身の回りには、人間関係のトラブルがなんと多いことでしょう。家庭内、近所付き合い、学校、職場などで、いじめ、虐待、暴行、果ては殺人と、毎日のように新聞の三面記事をにぎわしています。ところで、皆さんにはどんな友だちがおられますか。「良い友だち」とはどんな人でしょうか。一緒に出かけたり、おしゃべりしたり、趣味やスポーツを共にする気の合った人。気心が知れ、自分の事をよく理解してくれ、何でも相談に乗れる人など。でも、どんなに親友と呼べる人との関係も、ささいなことで悪くなることがあります。これまでの信頼関係が、一遍に壊れてしまいます。「昨日の友は今日の敵」という言葉さえあります。しかし、聖書の中でイエス・キリスト様は、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」と言われました。本当の友だちとは、相手が困った時、倒れ傷ついた時こそ、共にいて自分を犠牲にしてまで、助け起こそうとする人です。イエス・キリスト様は、罪人の私たちをその罪から救うために、身代わりに十字架につけられ死んで下さいました。それほどまでにして私たち罪人を愛して下さったイエス・キリスト様は、いつも共にいて下さり、私たちのことを誰よりも理解し、最善へと導いて下さいます。この方こそ、本当の友となって下さるのです。

                  (教会レター2012年冬号より)

 

『罪びとの救い』

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか

 自分でわからないのです。」

                 (ルカの福音書23章34節)

  つい最近、いじめの問題が、大きくクローズアップされました。現実に起きる問題をどう取り扱い、解決するかは、重要な問題です。しかしこの問題は、今になって始まったことではありません。ある意味では、いつになってもなくならない問題です。実は、これは子供たちだけの問題ではなく、子供に起きていることは、大人社会の中で起きていることの反映なのです。聖書では、人間はみな生まれながらの罪人であると教えています。しかも「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」とあります。私たち人間はみな、本質的には、自分中心です。自分には甘く、人には厳しく、自分の欠点は見えなくても、人の欠点はよく見えます。自分を守るために、自分の失敗は隠して、人のせいにします。それは、創造主なる神様に背き、離れてしまった結果です。このような人間は、まったく救いようのない存在です。しかし神様は、そんな人間をなおも愛し、その罪から救うために、ひとり子のイエス・キリスト様を救い主としてこの世に遣わされました。罪のない方でしたが、人々から文字通りのいじめ、虐待を受け、最後は罪人の身代わりに、十字架につけられ殺されました。イエス様は、十字架の上でこう叫ばれました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」このイエス様を救い主と信じ受け入れる者の罪が赦され、罪から救われるのです。それ以外に、罪人の救いはありません。

                  (教会レター2012年秋号より)

 

『新しく造られる人生』

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく

 造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、

 すべてが新しくなりました。」

              (コリント人への手紙第二5章17節)

 今年も半年が過ぎようとしています。もう新年度の生活には慣れる頃です。最近「五月病」という言葉が聞かれなくなりました。五月の連休明けに起こるこの病気、今はなくなったのかと言うと、そうではなく、ストレスが多様化し、年中、新人でなくとも起こるからだそうです。あるアンケートによると、一度は自殺を考えたことのある若者が20パーセントを超えています。本当の喜びのある、充実した人生を送るにはどうしたらよいのでしょうか。

 ある青年が自殺しようとしました。彼は遺書に「今夜12時を期して、この世にいとまごいを告げる。」と書きました。時計を見ると12時20分前でした。彼はいろいろと思いめぐらしているうちに寝てしまいました。しばらくしてハッと目が覚め時計を見ると、まだ12時20分前です。よく見ると時計が止まっていました。「壊れたらしい。時計屋に持って行って直さなきゃ」とつぶやいた時、ふと思いました。「待てよ、時計が壊れたら時計屋、つまり造っている所に持っていけば直る。私もどこか壊れている。どこへ行けば直るだろうか。」それで死ぬのを思いとどまった彼は、自分の造り主を探し求め、ついに聖書から、創造主なる神様がおられること、人間は罪によって壊れてしまったこと、しかし、イエス・キリスト様によって新しく造り直して下さることを知りました。私たちはみな、救い主イエス・キリスト様の所に行く時、新しく造り変えられ、新しい人生を歩むことができるのです。

                  (教会レター2012年夏号より)

 

『永遠に向かう人生』

 「まことのいのちを得るために、未来に備えてよい基礎を

  自分自身のために築き上げるように。」

                (テモテへの手紙第一6章19節)

 この冬は、暖冬という長期予報が外れ、かなり寒い冬でした。最近は春らしい春が短く、すぐ夏のような暑さになるようです。今年はどうでしょうか。いずれにしても、私たちの人生には予測のつかないことが起きます。昨年起きた東日本大震災もその一つです。そのことは、いつ何が起きて人は死んでしまうかわからないことを教えています。今は新年度が始まる頃です。将来の夢に向かってスタートする人、さらなる目標に向かって前進して行こうとする人など様々でしょう。けれども、私たちはいつ、どのようにして死を迎えるかわからないという現実を無視することはできません。私たちは、そのための準備もしておかなければなりません。聖書には「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあります。人間はみな、生まれながら、創造主なる神様に背き、離れ、自分勝手に生きる罪人なのです。すべての人が、その罪からの救いを必要としています。神様は、人間を罪から救うために、御子イエス・キリスト様をこの世に遣わされました。イエス様は、罪人の罪をその身に負われ、身代わりの刑罰を十字架の上で受け死なれ、三日目によみがえられました。聖書に「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」とあります。あなたは、死後の準備をして、永遠に向かう人生を送っておられますか。

                    (教会レター2012年春号より)

 

『すべてが益となる』

 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々の

  ためには、神がすべてのことを働かせて益として下さることを、

  私たちは知っています。」(ローマ人への手紙8章28節)

 過ぎた年を振り返り、新しい年に思いをはせる今日この頃ですね。2011年を振り返ると、国内外で地震や洪水などの災害が思い出されます。私たちはこのようなことが起きるたびに、なぜこのようなことが起きるのかと思います。ある人は、「傲慢な人間に対する神のさばきだ」と言います。聖書でも、罪人の人間に対する神様のさばきが語られています。しかし、神様は決して、人間 をさばき、滅ぼすことを願っておられません。かえって、人間を罪から救おうとされているのです。こんな話があります。船が難破して、唯一生存した人が、無人島にたどり着きました。その男は助けが来ることを神様に祈りましたが、誰も来ませんでした。やがて彼は、そこで暮らすために、流木で小屋を作りました。ある日、食べ物探しから帰ってみると、小屋が炎に包まれ、煙が立ち昇っています。「神様、なぜこんなひどいことをするのですか」と叫びました。翌朝、彼は救助に来た人に起こされました。「どうしてここがわかったのですか。」すると、「煙の合図を見つけたからです」と答えました。実は、神様は、様々な問題を通して、人間が自分の罪に気付き、神様の愛を知り、神様に立ち返る機会を与えておられるのです。私たちが、起きた事をどう受けとめるかが問題です。神様が自分を愛し、最善をなさろうとしておられることを知り、神様を信じ、愛し、信頼することができるなら、神様がすべてのことを益として下さることを知ることができるのです。

                    (教会レター2011年冬号より)

 

『確かな信頼に生きる』

 「苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。

  あなたはわたしをあがめよう。」(詩篇 50篇15節) 

 未曾有の大震災から半年が経ちました。今だに多くの問題が山積みです。特に、原子力発電所の放射能汚染の問題は、被害が拡大し、食物の安全性さえも脅かされています。私たちは、一体何を信頼して生きて行けばよいのでしょうか。昔、フランスにヴォルテールという哲学者がいました。彼は無神論者で、神を認めず人間を誇り、人間が無限の力を持つかのように考えていました。ところが、彼がアルプスの山に登った時、天候が急変し、すさまじい雷光がひらめき、空が真っ暗になり、思わず、「神よ、助けたまえ」と叫びました。人間は、いざとなると、とっさに神に助けを求めます。それは人間が、神という存在を必要としている何よりの証拠です。でもその神とは、どのような方でしょうか。聖書が教えるまことの神様は、この世界のすべてのものを造られた創造主なる方です。人間はその神様に愛され、神様と共に生きる者として造られました。人間は、その神様を信じ、信頼して生きればよかったのです。ところが、人間が神様に背き、自分勝手に生きるようになり、様々な問題が引き起こされるようになってしましました。人間は、自分ではどうすることもできなくなった時だけ、神様に助けを求めます。けれども、人間を愛する神様は、そんな叫びをも聞かれ、ご自身のもとに立ち返る機会として下さいます。今苦しみの中にある方、創造主のもとに帰るチャンスです。神様を信じ、信頼しませんか。

                    (教会レター2011年秋号より)

 

『あの日に帰りたい』

 「わたしが道であり、いのちであり、真理なのです。

  わたしを通してでなければ、だれひとり、

  父のもとへ来ることはありません。」(ヨハネの福音書 14章6節)

 巨大地震と言われた東日本大地震が起きてから、数ヶ月が経ちました。その被害の大きさには驚くばかりです。地震と津波による直接の被害に加え、原子力発電所の放射能汚染により、今だに多くの人々が、住み慣れたわが町、わが家に帰れず、避難生活を余儀なくされています。そんな中、被災地に入ったある支援チームの方のこんな話しがあります。想像を絶するほどの光景を目の当たりにしていると、がれきの山の中のある物に目がとまり、手に取りました。それは一枚の古いドーナツ盤のレコードでした。泥をぬぐって曲名を見ると、『あの日にかえりたい』とありました。一昔前に作られたこの曲は、まるで被災した方々の思いを表しているようです。実は、すべての人間が帰るべき、あの日、あの所があるのです。それは、私たちを造られた創造主なる神様の所です。神様と共に生きる人間が、神様のもとを離れ、自分勝手に生きるようになってしまったのです。その結果、自分たちが引き起こす様々な問題の責任を、自分で負わなければならなくなりました。けれども神様は、そんな人間が、もう一度、ご自身のもとに帰ることを願っておられるのです。そのために、救い主イエス・キリスト様をこの世に遣わされました。このイエス様を通してでなければ、私たちは父なる神様のもとへ帰ることはできないのです。私たちにとって、父なる神様のもとへ帰ることが、真の心の安らぎと喜びを得る、わが家へ帰ることなのです。

                    (教会レター2011年夏号より)