救いとは何か

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

  それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、

  永遠のいのちを持つためである。」

                     ヨハネの福音書3章16節

 聖書の中心的テーマは「神様の救い」です。それは、良い知らせ「福音」と言われています。では、その救いとはどのようなものでしょうか。また、それはどのようにすれば自分のものとすることができるのでしょうか。ここでは、その神様の救いの意味とその救いを得るために必要な、次の七つのステップを紹介します。

Ⅰ、創造主なる唯一の神様の存在を知る

  「初めに、神が天と地を創造した。」創世記1章1節

 私たちがまず、知り、認めなければらないことは、この世界、天と地とその中のすべてのものを造られた創造主である唯一の神様がおられるということです。私たち人間は、その神様によって造られました。しかも、「神は人をご自身のかたちとして創造された。」(創世記1章27節)とあるように、神様は人間に、ご自身が持っておられる性質の一部である人格を与えられました。それは人間が、神様に愛されその神様の愛に自分の意志で心から喜んで応答し、神様を愛し、神様と共に、神様のことばに従い、神様のために生きるためでした。それが人間の本来のあるべき姿であり、そこにこそ、本当の喜びと平安、幸福があることを知る必要があります。この唯一の創造主なる方以外に神様と呼ばれる方はおられないのです。

「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。」(出エジプト記20章3-5節)

 

Ⅱ、人間の罪を知る

 「義人はいない。ひとりもいない。

  悟りのある人はいない。神を求める人はいない。

  すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。

  善を行う人はいない。ひとりもいない。」

                   ローマ人への手紙3章10-12節

 聖書が語る人間観は、人はみな、生まれながらの罪人であるということです。それは、神様が人間をそのように造られたと言うのではありません。神様と共に生きていた最初の状態では、人間は罪を持っていませんでした。ところが人間は、自分の意志で、神様に背き、神様から離れ、自分勝手に生きる者、すなわち、神様に対して罪を犯した罪人となってしまったのです。神様中心から自分中心、人間中心に生きるようになったのです。それは、本来向かうべき心の方向が的外れな方向に向かっている状態です。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」(イザヤ書53章6節)とある通りです。その結果、本来の善悪の絶対的な基準である神様のことばには従えなくなり、自分勝手な善悪の基準で判断して、具体的に間違った行ない、罪を犯してしまうのです。私たちは、自分がそのような罪人であることを知る必要があります。

「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコの福音書7章20-23節) 

 

Ⅲ、罪の刑罰を知る

  「罪から来る報酬は死です。」ローマ人への手紙6章23節

 私たちは、何か悪い事をすれば、特に法律を犯せば、当然の報い、刑罰を受けなければならないことを知っています。それは、神様に対して犯した罪にも同じことが言えます。聖書に、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ人への手紙3章23節)とあります。すべての人が生まれながらの罪人である以上、すべての人がそのままでは、神様の刑罰を受けることになります。その刑罰は「死」です。私たちは誰でも、この地上の生涯の終わる肉体の死が、いつか必ずやって来ることを知っています。それも、罪の結果の刑罰です。けれども聖書では、もう一つの死があることを教えています。それは、神様と共に生きる時にある霊的ないのちが失われてしまうことです。今、この地上に生きている時でも、神様から離れて生きているなら、霊的には死んでしまっているのです。そのような人生は、いつかなくなるこの世のものだけに生きている、むなしい人生です。そしていつか肉体の死を迎えるのです。そして、この地上の人生を生まれながらの罪人のまま生き、そして肉体の死を迎えるならば、その死後のさばき、刑罰、永遠に神様から引き離されて苦しむ、「第二の死」と呼ばれる永遠の刑罰を受けることになるのです。私たち人間はみな、この罪の刑罰にしか値しない者であることを知る必要があります。

「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」(ヨハネの黙示録21章8節) 

 

Ⅳ、罪人への神様の愛を知る

 「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んで

  くださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにして

  おられます。」              ローマ人への手紙5章8節

 生まれながらの罪人である私たち人間はみな、そのままでは神様からの罪の刑罰を受けなければなりません。義なる神様からすれば、人間は刑罰にしか値しない存在です。ところが神様は、そんな人間をも愛してくださいました。なぜなら、神様は愛だからです。愛の神様は、罪人の人間を罪から救おうとされたのです。神様の愛は、「無条件の愛」「犠牲的な愛」と言われます。それは、救いようのない罪人を、ご自身を犠牲にしてまで救おうとされたからです。その愛は、神様ご自身が人となられ、罪のない方として、罪人の人間の罪をその身に負われ、身代わりの刑罰を十字架の上で受けられ、死なれることで示されました。それが、神の子としての救い主、イエス・キリストというお方です。私たちは、そのような神様の愛を知る必要があります。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、

 なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

                      (ヨハネの手紙第一4章8節)

 

Ⅴ、罪を悔い改める

 「そういうわけですから、あなたがの罪をぬぐい去っていただくために、

  悔い改めて、神に立ち返りなさい。」使途の働き3章19節

 私たちは、神様の救い、罪からの救いを受けるためには、まず、神様に対して犯した罪を赦していただかなければなりません。そのために、私たちは何ができるでしょうか。罪が赦されるためには、それ相当の償いが必要です。私たちが神様から赦されるためにできる償いは、どんな善い行いでも、お金を払うことでもありません。当然の刑罰である死に相当するものは、自分のいのちを差し出して死ぬ以外にないのです。でもそれでは救いにはなりません。結局、私たちは何の償いも自分からは払うことができません。だからそれを神様が代わりにしてくださったのです。しかし、その償いが有効となるためには、まず私たちは、自分の罪を悔い改めなければなりません。「悔い改め」とは、的外れな罪の心の方向を、正しい方向、神様の方向に向きを変えることです。それは、これまでの神様から離れた罪の生き方を捨て、神様に従って、神様を第一にして生きて行こうと決心することです。罪を悔い改めないで、罪を犯し続け、罪が赦されるなどという考えは、あまりにも虫のいい話です。神様が私たちに求めておられることは、もう一度、神様と共に、神様のことばに従い、神様のために生きる者となることです。そのために、まず私たちは罪を悔い改める必要があるのです。

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(ペテロの手紙第一2章24節)

 

Ⅵ、イエス・キリストを救い主と信じ受け入れ、主と告白する

 「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神は

  イエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、

  あなたは救われるからです。

  人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

                    ローマ人への手紙10章9-10節

 イエス・キリスト様は、救い主としてこの世に来られました。そして、私たち罪人の人間の罪をその身に負われ、身代わりの罪の刑罰を十字架の上で受け死なれ、三日目によみがえられました。それは私たちが、罪赦され、もう一度、神様と共に永遠に生きるいのち、永遠のいのちを受けるためでした。それは神様の一方的な恵みとして与えられた賜物、プレゼントです。それは、すべての人に差し出されているのです。けれども、それを自分のものとするためには、その差し出されたプレゼントを、心から喜んで受け取らなければなりません。それが、罪を悔い改め、イエス・キリスト様を救い主と信じ受け入れ、主と告白する信仰なのです。その信仰によって、私たち罪人は、神様の救い、罪からの救いを受けることができるのです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ人への手紙1章8-9節)

 

Ⅶ、バプテスマ(洗礼)を受けて、教会のメンバーになる

 「バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、

  正しい良心の神への誓いであり、

  イエス・キリストの復活によるものです。」

                    ペテロの手紙第一3章21節

 私たちは、罪を悔い改め、イエス・キリスト様を救い主と信じ受け入れ、主と告白する信仰によって罪から救われクリスチャンになります。決して、善い行いを積み重ねて善い人になることによるのでも、ただバプテスマ(洗礼)を受けることによって救われ、クリスチャンになるのでもありません。けれども、バプテスマを受けることは、イエス・キリスト様が命じておられることです。なぜなら、それは、私たちが罪を悔い改め、イエス・キリスト様を救い主と信じ受け入れ、主と告白し、キリスト様の十字架と復活にあずかったことの目に見えるしるしであり、公の信仰告白となるからです。それはまた、私たちが結婚式や入学式をすることで公に結婚や入学が認められるように、公にクリスチャンあるいは教会のメンバーとして認められることです。それによって神様と共に、神様を第一にする信仰生活が始まるのです。イエス・キリスト様を信じたクリスチャンは、ただ心で信じていればそれでいいというものではありません。教会の一員となって、教会を中心とした信仰生活を送るのです。聖書で言う「教会」とは、建物や場所のことではなく、イエス様を信じるクリスチャンの群れのことです。それはまた、「キリストをかしらとするキリストのからだ」とも言われています。ですから、クリスチャンとなった者は、キリストのからだの一部とされ、からだの器官としての何らかの働きを担うことになるのです。それが神様と共に、神様のために生きることであり、本当の喜びと平安と満足のある、生きがいのある人生を送ることになるのです。群れを離れた羊が、単独では生きられないように、クリスチャンも一人では生きられません。教会のメンバーとなり、礼拝を中心とした信仰生活を送ってこそ、本当のクリスチャンとして生きることになるのです。

「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(ヘブル人への手紙10章25節) 

 

あなたもこの七つのステップを踏んで、神様の救い、罪からの救いを自分のものとし、神様と共に生きる本当の人生を歩みませんか。