Q&Aコーナー

Ⅲ、『救いについて』

Q6.「洗礼を受ければ、人は救われるのでしょうか?」

A6.救われるためには、信仰のほかに何も必要としません。それが聖書の教えです(エペソ人への手紙2章8-9節)。たとえ洗礼(バプテスマ)という礼典であろうと、それを受けることによって救われるという教えは、行いによって救われるという教えになってしまい、聖書の教えに反します。

 聖書は、人が救われるのは、行いによるのではなく、信仰のみによると教えています(ガラテヤ人への手紙2章16節)。それは、人間があらゆる機能において、罪のために腐敗、堕落しているので、自分の力で自分を救うことができなくなってしまっているからです。つまり、道徳的な破産者、無能力者になってしまったのです。ですから、信仰を通して、神様が救ってくださる以外に、私たちが救われる道はありません。

 そこで、歴史的なキリスト教会(歴史に存在した正統的なキリスト教会)では、洗礼によって救われるという教えを異端として排除して来ました。それは聖書の教えではなく、むしろ聖書の教えに反するからです。

 それでは、何のために洗礼を受けるのでしょうか。洗礼が正しい位置を占めることが大切です。信仰によって救われた人が、その後、礼典としてこれを受ける時に、意味を持つのです。信仰によって救われるということは、目に見えない霊的・普遍的教会の一員に加えられたことを意味しています。そうした人々が、公に人々の前で信仰を告白し(ローマ人への手紙10章9-10節)、歴史的社会的に制約された、目に見える具体的な教会の一員とされるために、水によって象徴される洗礼を受ける必要があるのです(マタイの福音書28章19-20節、使徒の働き2章41-42節)

*エペソ人への手紙2章8-9節「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

*ガラテヤ人への手紙2章16節「しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」

*ローマ人への手紙10章9-10節「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

*マタイの福音書28章19-20節「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」

*使徒の働き2章41-42節「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」