Q&Aコーナー

Ⅳ、『信仰について』

Q3.「私はあまりにも汚れ果てています。もう少しましな人間になったら、信仰を持てるようになるのではと思うのですが?」

A3.よくこのような言い訳をする人がいます。このような言い訳の根本的な誤りは、自分の力で罪の汚れから自分をきよめることができるという考え方にあります。しかし、これはとんでもない間違った考えです。もし自分で自分をいくらかでもきよめることができるのなら、自分を完全にきよめることもできることでしょう。このように考えるのは、汚れとかきよさの意味がわかっていない証拠です。

 完全にきよいということは、少しの罪の汚れもないということです。少しでも罪があり、汚れがあれば、それはもはやきよくはないのです。つまり、きよいということには、少しだけきよいとか、半分だけきよいとか、大部分はきよいなどということはありません。完全にきよいか、汚れているかのどちらかなのです。そして、もともと汚れている者が、自分で自分をどのようにして、罪の汚れからきよくすることができるのでしょうか。それは不可能なことなのです。

 ある病人が、医者の所へ行くように勧められたとします。その場合、「もう少し病気が良くなってから、医者の所へ行きたいと思います」などと言うでしょうか。病気だから医者の所へ行くのです。自分の力でいくらかでも良くなることができるなら、わざわざ医者の所へ行くまでもありません。ちょうどこれと同じです。自分の力できよくなることができるなら、わざわざイエス・キリスト様のみもとに行く必要などないはずなのです(ルカの福音書5章31-32節)。 

*ルカの福音書5章31-32節「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」