Q&Aコーナー

Ⅴ、『倫理道徳について』

Q3.「正しい生活をしていさえすれば、信仰がなくても、立派な人間になれるのではないですか。」

A3.この「正しい」と「立派な」ということが、何を意味するかが問題です。まず、何を基準にして「正しい」と言うのでしょうか。大抵の場合、それは「自分の良心に恥じない」という程度のものか、ごく常識的な意味での「正しい」ということです。しかし、「自分の良心に恥じない」という正しさは、しばしばその人だけに通用する正しさでしかありません。人間の良心というものは、人によってその基準が違うからです。私たちの良心は、悪いことをすると、しだいに麻痺してしまい、善悪の判断の基準が違ってきてしまうのです。従って、私たちの良心は、絶対的な基準にはならないのです。

 また、常識的に言って「正しい」ということも、時代が変われば変わるという、頼りなさを持っています。しかも、この「常識」というものが、人それぞれによって異なり、これと言った絶対的な基準というようなものを、決めることはできないのですから、ずいぶんといい加減なものだと言えるでしょう。

 また、「立派な人間」という言葉にしても、何を基準にそう言えるのでしょうか。

 ですから、絶対的な正しさというものは、人間の良心や常識では判断できないので、神様を離れてはありえないのです。神様を離れた正しさは、正しく見えても、実は神様の目には汚れたものでしかないのです。神様を離れて何かをして、人間の目には立派に見えたとして、神様の目には、ぼろをまとった人間にしか見えません。人間として立派な人とは、神様によって造られた人格が充実するという以外にはないのです。人間は、神様を離れては、正しいことをすることも、立派になることもできないのです。