Q&Aコーナー

Ⅵ、『その他』

Q5.「献金にはどんな意味があるのですか?」

A5.イエス様は、私たちを罪から救い、神の子としてくださるために、ご自分のいのちをささげてくださいました。人は、この愛に本当に応えるすべを「感謝」以外に知らないと思います。どんな贈り物をお礼としても、とうてい足りないのです。でも、わずかながらも私たちは、自分の体も才能も、与えられているものすべてをささげ、神様の栄光のために用いていただこうと願うのです。そして、献金はこの感謝と献身の思いを、具体的に表わすものの一つです。ですから献金は、あくまでも自発的で、心から喜んでささげるものなのです(コリント人への手紙第二9章5-7節)

 献金は、神様の働きのために用いられます。様々なパンフレットをはじめ、維持費や人件費など、教会の予算のすべてが献金によってまかなわれているのです。「私はまだ学生だし、お金がないから献金できない」という人は、お金が余れば献金するものと考えているようです。しかし、感謝の気持ちや献身の表明は、余り物で表わすべきでしょうか?まず聖別献金(十分の一献金)というのがあります。まず最初に、収入の十分の一以上をささげるのです。最初から献金する気持ちが大事なのです。「集会に通う電車賃を献金するために、歩いて来た」という人たちもいるくらいです。この聖別献金には、神様が私たちをあふれるばかりに祝福する、という約束がついています(マラキ書3章10節)。「神様にささげたらなくなってしまった」というのではなく、ますます豊かになるという体験は、すばらしいものです(コリント人への手紙第二9章8,10節)。クリスチャンは、自分のお金をきちんと管理して無駄遣いを避け、喜びをもって精一杯、信仰によらなければささげられないだけのものをささげるのです(マルコの福音書12章41-44節)

*コリント人への手紙第二9章5-7節「どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」

*マラキ書3章10節「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかためしてみよ。」

*コリント人への手紙第二9章8,10節「神は、あなたがを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」

*マルコの福音書12章41-44節「それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。『まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。』」